サラ・イクバル(Dr. Sarah Iqbal)博士は、インドの保健および生物医学分野の研究に資金を提供する独立公益団体、DBT/ウェルカム・トラスト・インディア・アライアンスのコミュニケーションおよびパブリック・エンゲージメント部門を率いています。インド政府のバイオテクノロジー省(DBT)とウェルカム・トラスト(英国)から資金提供を受けているインディア・アライアンスは、インドにおける保健関連の課題を解消することを第一目的としており、生物医学・臨床・公衆衛生分野の基礎研究に投資を行うことで、国内の研究環境を強化し、学際的共同研究を促し、科学へのアクセシビリティの向上を目指す政策や介入を実行するための支援を行なっています。
イクバル博士は、オックスフォード大学で生物化学を専攻し、修士号と博士号を取得しました。博士号取得後は、スクリプス研究所(米フロリダ)のポスドクとして、さまざまな治療薬開発プログラムに携わりました。その後、DBT/ウェルカム・トラスト・インディア・アライアンスのパブリック・エンゲージメント部門の職員となって現在に至ります。博士は、研究者としての経験を活かし、よりアクセスしやすい科学を目指す情熱を持って、一般社会へのアウトリーチを促す活動に取り組んでいます。また、助成金申請や科学コミュニケーションに関する研究者向けのワークショップを定期的に開催しています。
このインタビューでは、科学と芸術がいかに分かちがたく結びついているかということへの興味深い見解など、さまざまなお話を伺いました。また、研究を効果的に伝えるには訓練が必要なこと、科学をうまく伝えられないことを研究者個人の責任にするのはフェアでないことなど、科学コミュニケーションやパブリック・エンゲージメント(公衆関与)に関する厳しい現実についても伺いました。
コミュニケーションおよびパブリック・エンゲージメント部門トップとしての役割について、詳しく教えて頂けますか?
現在のポジションでは、保健の改善につながる新たな発見やイノベーションの推進という組織の使命に沿って、外部コミュニケーションやパブリック・エンゲージメントに関する活動を取りまとめています。具体的には、利害関係各者との交流、科学と社会のギャップを埋めるための革新的プログラムの企画と選定、そして、インディア・アライアンスがインドの科学研究環境を強化できるような、プログラムに沿った国内外における新たな関係性の構築と維持です。
以前、科学と芸術の領域を組み合わせることで、「単体で考えるより、はるかに多くの扉を開くことができる」と述べておられます。この興味深い考え方について説明して頂けますか?
大多数の科学者(および芸術家)と同様、私も、芸術と科学を異なる世界のものとして見るように訓練されてきました。しかし、心の奥底では、両者が異なるということが腑に落ちず、探求する価値のある何らかのつながりが存在しているのではないかと感じていました。この思いは、両分野の従事者を集めたプログラムに取り組み始めたとき、確信に変わりました。科学と芸術は、異なる部分より、共通する部分の方が多いのです。
数百年前は、科学者と芸術家を分けるのは難しかったようですが、現代では、両者は「知識」と「実践」という別のカテゴリーに分けられています。そして私たちは、これらの分野が厳密に定義されていて、必ずどちらかを選ばなければならないと思い込まされています。
科学の進歩や芸術との触れ合いは、私たちの日常を形作っているものです。その意味で、両者は、人間の体験にとって区別できるものではありません。昨今、芸術は科学コミュニケーションのための便利なツールとなっています。また、科学の進歩によって、芸術活動も強化されています。どちらも、世界に対する私たちの理解を深めているものなのです。
芸術と科学のプログラム「KHOJ」について、詳しく教えてください。
インディア・アライアンスが支援する芸術と科学のプログラムである「KHOJ」は、学際的なコラボレーションや実験を促し、両分野の対話の道を作ることを目指しています。その過程で、科学と保健に関するトピックに、一般社会がアクセスしやすくなると考えています。このプログラムでは、現代芸術家(コンテンポラリー・アーティスト)に、それぞれの活動を通して科学や保健に関するトピックを探求するためのプラットフォームを提供しています。つまり、芸術家の視点からの科学の探求(ヒンディー語で[khoj])です。このプログラムによって、科学・技術・文化・社会間の相互作用に関する有益な議論が巻き起こり、芸術と科学の実践は社会から切り離すことのできないものだという事実が強調されました。
パブリック・エンゲージメントという概念について、研究者はその効果や必要性について、どの程度理解していると思われますか?
現代の科学者の多くは、研究情報を一般社会と共有することの重要性を認識しています。しかし、それを効果的に行う方法についてはあまり詳しくないかもしれません。さまざまなコミュニケーション手段やパブリック・エンゲージメントの方法論を学ぶ時間が取れないという多忙な研究者も多いでしょう。橋渡し研究(translational research)や、特定の分野(保全・生態学、公衆衛生学、天文学など)の研究は、基礎科学と比較すると、パブリック・エンゲージメントがしやすい分野であると言えます。基礎研究への関心やサポートを生み出すことは非常に難しいため、コミュニケーションやエンゲージメントの画期的な方法が求められています。
インドでは依然として、科学の情報を分かりやすい方法で広めることに重点を置いた、科学コミュニケーションの欠如モデル(注:大衆が科学技術を信用しないのは「大衆の理解が足りないからだ」とする理論)に従っています。しかし、一般社会の情報ニーズは検討されておらず、伝えるべき相手である「一般社会」とはそもそも誰であり、その人たちは科学についてどう考え、何を知っているかを分析できていないのが現状です。
私たちは、方針を立て、課題を特定し、社会問題を解決する研究を実施するために科学者/科学コミュニティが一般社会と積極的に関わり、意見を求め、協力するという対話型/エンゲージメント型の科学コミュニケーションを、いまだに導入できていません。アバイ・バン(Dr. Abhay Bang)博士はある記事で、「人々についての(research on the people)、人々のための(for the people)、人々と共に取り組む(with the people)研究が重要」だと述べています。インドでは、「on」と「for」の研究はある程度行われていますが、「with」の研究には程遠いと言わざるを得ません。
ある共著論文で、「科学におけるパブリック・コミュニケーションは、マーケティングや広報活動のためではなく、科学に人間味を持たせ、疑問・推論・論理の文化を育むためにある」と述べられています。科学者はこの文化を、一般の人々の間にどのように構築できるでしょうか。
科学とは、単にファクトや数値を寄せ集めたものではなく、批判的・論理的に物事を考えるための手段です。これは、私が科学を学ぶ中で核となった考え方です。人間は、本質的に非常に好奇心が強く、疑問を持つ能力や、直面した問題を解決する能力を備えています。このような資質は、特定の分野や職業に従事する人々に限られたものではありません。人間とこの地球の幸福を確保するためには、あらゆる職業や分野で、エビデンスベースの合理的な決定を行う必要があります。しかし、現在の教育システムは、このような資質を十分に育むものではありません。
科学情報を一般社会と共有するだけでなく、科学研究の仕組みを伝えることも重要です。とくに、科学が、不確かで複雑で、目まぐるしく変化し、倫理的意味を持つものであることを伝えなければなりません。新型コロナウイルス危機は、この点に関して、私たちが目を覚ますきっかけとなりました。科学研究の不確かで複雑な性質を伝えることは簡単ではなく、一般社会と熱心に対話し続けることが必要です。つまるところ、科学コミュニケーションの主な目的の1つは、社会のあらゆるレベルで、エビデンスベースの決定が行われるようにすることです。ファクトや数値だけをエビデンスとして共有することは、批判的思考力を育む上で、不十分なのです。科学のプロセスやコミュニケーションに一般の人々を巻き込むことでしか、目的は達成されないでしょう。
私は、ラムゼイ・ムッサラーム(Ramsay Musallam)氏の次の言葉に大きな感銘を受けました:「私たちが、論文の発信者というシンプルな役割を脱し、好奇心や疑問を持つ心を育む存在として新たなパラダイムを取り入れることができれば、学生たちの学校生活に多少なりとも意味をもたらし、その想像力を刺激すことができるでしょう」。本当にそうなればいいと思います。科学的な気質を子どもたちに植え付けようとするなら、何よりも、学校での優れた科学教育が必要です。私たちの The Explorer Seriesは、この方向を目指す小さな取り組みの1つです。
研究者が自分の活動を一般の人々に伝えられるようにするには、どのような制度的支援が必要だとお考えですか?
一般社会に向けた科学コミュニケーションでは、多様なアプローチが求められ、さまざまな利害関係者が関わります。したがって、「科学コミュニケーションやパブリック・エンゲージメントを通して科学的気質を養う」という重責を科学者だけに負わせることは、不合理だと考えています。
科学コミュニケーションを実行可能で持続可能な活動にするためには、機関や助成団体がそのための予算を割り当て、制度を整え、活動を支援できる訓練を受けた人材を育てる必要があります。また、一般の人々を研究に関与させることの価値を、科学教育の早い段階で強調しておかなければならないでしょう。
新型コロナウイルス危機で、一般社会との関わりに対する準備不足が露わになりました。科学と社会の間に有意義な関係が構築されていれば、このような危機下において、パブリック・エンゲージメントは大きな効果をもたらしたはずです。
研究者が一般社会と関わるためのヒントがあれば、教えて頂けますか?
決まった方法はありませんが、適切なアプローチはあります。まずは、科学コミュニケーションやパブリック・エンゲージメントを、後付けや形式的に行うものではなく、研究を行う上で欠かせない要素と考える必要があります。これは非常に重要なポイントです。パブリック・エンゲージメントの取り組みが効果を発揮してインパクトを持つかどうかは、科学と社会の関係を構築しようとする誠実さにかかっています。もう1つ付け加えたいのは、受け手に目を向け、そのニーズ・価値観・信念・知識に配慮することです。自分の考えを効果的に伝えるためには、相手のことをよく知っておかなければなりません。
最新の科学研究やその社会的影響について、一般の人々から情報を求められることはありますか?
もちろん、よくありますよ!新型コロナウイルスによって、科学への眠っていた関心が突如呼び起こされた側面もあるのでしょう。よくあるのは、私たちの団体が資金提供している研究、あるいはインドで行われている研究が、一般市民にどのような利益をもたらすのか、という質問です。一般市民が知りたがっているのは、複雑な科学についてではなく、科学者の活動によって自分たちの生活にどのような影響があるかについてです。これまで、パブリック・エンゲージメントに関するプロジェクトを通して、科学者ではないさまざまな人々と交流・協働してきました。その中で聞いたのは、相談や協働のできる科学者を見つけることが非常に難しい、そして、見つけられたとしても、その科学者から伝えられる科学が理解できない、という声です。この経験は、私たちインディア・アライアンスが、科学コミュニケーションのワークショップを通して科学コミュニケーションの能力向上に熱心に取り組んでいる理由の1つとなっています。
今、学術界のメンタルヘルスに関する話題が注目されています。現在の学術界の文化について、どのようにお考えですか?
インドでは、ゆっくりとですが着実にこの問題が認識され始めています。社会福祉のために設立された機関で働いている人々が、不健全な労働文化のためにメンタルヘルスの問題に苦しめられているのは、きわめて皮肉なことです。また、メンタルヘルスの問題に関する人々の理解が浅いということも問題だと思います。メンタルヘルスは、深刻な健康問題として考えるべきものです。心と体の健康は複雑に関わり合っているものなので、同等の緊急性と深刻さをもって扱う必要があるでしょう。
インディア・アライアンスでは、メンタルヘルスに関する一般社会の認識を高めることを目的とした、さまざまなプログラムを企画しています。最近では、The Life of Scienceによる示唆に富んだ記事シリーズに協力し、インド科学界におけるメンタルヘルスの調査で集まった多様な声から、早急に対応する必要のある問題を明らかにしました。また、ジョージ国際保健研究所(インド)と共に、メンタルヘルスと職場でのストレスに関するワークショップを企画し、デリーでは公開イベントも開催しました。インディア・アライアンスは、若者が安心して自分のメンタルヘルスに関する体験や、精神疾患や健康について話すことができる場を提供することを目的とした、「It’s Ok To Talk」という支援活動も行なっています。また、カクタス・コミュニケーションズによる、学術界のメンタルヘルスに対する理解を深めるためのグローバル調査にも参加しています。
これまでにさまざまな調査を実施し、多くのデータを集めてきました。それらのデータは、科学界の健全性を維持するためには、より健康的で親しみやすい研究文化を早急に構築する必要があることを示しています。
イクバル博士、素晴らしいお話をありがとうございました!