昨年7月、イランと欧米などが、核問題に関する歴史的合意に達しました。世界中の研究者や政策立案者の間では、イランの科学研究の未来が話題となっています。イランはかつて科学の中心地であり、数学、哲学、天文学に多大な貢献をしていました。
2015年7月、イランと欧米など5ヶ国が「包括的共同行動計画(Joint Comprehensive Plan of Action、JCPOA)」によって核問題に関する歴史的合意に達しました。このため、世界中の研究者や政策立案者の間では、イランの科学研究の未来が話題となっています。核問題の合意における最も重要な項目として、イランがウラン濃縮活動を減少させることが挙げられています。その見返りとして、米国、EU、国連による全ての制裁が解除されます。イランの学者たちは、国への制裁解除後、過去の栄光を取り戻すことに望みを抱いています。この機会に、同国における過去数十年間の科学環境を検証し、どのような理由と経緯によって制裁を受けるに至ったのか、そして制裁解除によってその科学的発展に何が期待されるのかを考えてみたいと思います。
歴史上ヨーロッパが「暗黒時代」と呼ばれた頃、イランは科学の中心地であり、ペルシャの研究者は、数学、哲学、天文学に多大な貢献をしていました。しかし、1979年にイラン革命が起こると、その科学環境は劇変しました。この政変により、大部分の知識人は、より良い未来を求めて国を去って行ったのです。またこの時期、イランは核武装の動きを強め、米国の制裁を招きました。2002年、ガス遠心分離機を設置したウラン濃縮施設がナタンズに、重水製造プラントがアラクに秘密裏に建設されていることが分かりました。これを受け、国連安全保障理事会はイランとの交渉を開始し、ウラン濃縮活動の停止を求めてきました。しかし不首尾に終わったため、経済制裁が発動され、イラン経済は大きな打撃を受けることとなったのです。
制裁は、イランの核兵器開発を阻止する目的で課されましたが、その影響は同国の研究開発にも及びました。イランは、化石の輸入、国際科学ジャーナルの購読、海外からの機器調達を禁じられました。制裁に抵触することがあってはならないと慎重な対応をとった出版社もあったため、イランの研究者は国際ジャーナルでの出版が困難となりました。学者たちにとって更なる災難となったのは、経済制裁によって政府の科学予算に影響が出たことです。最新の数字では、イランの科学予算の公式の政府目標はGDPの3%でしたが、2014年の政府による科学への投資はGDPの0.5%に過ぎませんでした。
これらの障害にもかかわらず、イランの科学は勃興しました。研究者たちは、地震感知器など、輸入することのできない機器を発明したほか、闇市場から設備を調達することまでしました。イランの科学研究技術大臣モハンマド・ファラジー(Mohammmad Farhadi)氏は、実のところ、制裁があったために、「科学・産業・サービス分野で新たに有益な形で協力し合うことを強いられた。科学者たちはより創意工夫を行うよう奨励され、イランの歴史上初めて、知識に基づいた経済が促進されることになった」と述べています。この発言を裏付けるように、ファラジー氏は、イランには大学生が約450万人いること、そして高等教育機関が2500、科学技術パークが36、科学に関する非営利団体が400、研究所が800以上、そして科学ジャーナルが1000誌以上存在することに触れています。さらに、イランの科学者は年間約3万本の国際科学論文を出版していることも付け加えています。また、イランの科学の素晴らしい特徴として、男女が平等に貢献していることが挙げられます。
過去30年間に渡り、イランの科学は、制裁を受けているにもかかわらず、地震学や幹細胞研究などの分野で大きな進歩を遂げてきました。このためイランの学者たちは、制裁解除後は科学知識が深まり、国際協力に関わっていく選択肢が増えると期待しています。イラン政府は、教授と学生の交換プログラムや、他大学と共同で運営する科学コース、海外大学のイラン支部設立などを通じ、国際的な科学協力の開始を計画しています。また、国外で働いている知識人を呼び戻すために、科学助成金を増やし、学術的自由を奨励することで、イランでの就職を働きかけることも考えています。制裁解除後、イランに対する見方が変わり、同国の科学研究が順調に発展していくかどうか、今後が注目されます。