鈴木正信先生へのインタビュー第2回です。今回は、日本の古代史を研究する意義と、研究者の武器となる英語での情報発信について伺います。
日本の古代史を研究する意義
――海外にも日本の古代史を研究している人はいるのですか?どこの国の人ですか?
中国と韓国の研究者が多いです。また、私が早稲田で関わっている共同研究には、アメリカの先生も参加してくださっています。ほかに私が知っている範囲では、ベトナムやフランスの研究者もおられます。
――やはり中国と韓国の研究者が多いのですね。
多いですね。日本人の側も、中国や韓国へ留学したり、現地の大学に勤めた経験があったりして、中国語や韓国語に堪能な研究者も多いです。古代の日本を知るためには、中国大陸や朝鮮半島とのつながりが不可欠ですので。私は以前、指導教授からお声をかけていただいて、早稲田大学と奈良県の共同研究に参加したり、いまも日本古典籍研究所という研究所の共同研究に参加しているのですが、そこで中国・韓国・日本の古代史は切り離して考えることができないと改めて感じました。以来、中国から日本へ招かれた菩提僊那(ぼだいせんな)という僧侶や、朝鮮半島から日本へ移住した高麗若光(こまのじゃっこう)という渡来人など、海を越えて活躍した人たちにも関心を持つようになりました。
(写真:菩提僊那が住んだ大安寺の塔跡)
――そもそも古代史を研究分野に選ばれたきっかけは何でしょうか?
小学生の頃から歴史小説をよく読んでいました。日本の古代史だけではなく、戦国時代や、幕末、世界史ではギリシア・ローマも好きでした。その頃は、歴史というのはメルヘンな世界、異次元の物語のようなイメージがあったのですが、高校生くらいのときに早稲田大学の先生が唱えられた王朝交替説という説を知りました。古代の天皇家は万世一系ではなく、何回か交替があったという説です。その先生の本を読んでいると、推理小説の謎を解いているような、パズルのピースを組み合わせていくような面白さがあって、それでもっと古代のことを知りたい、と。それが古代史の道に進んだ直接のきっかけだったと思います。
――高校生の頃から将来研究者になろうと思っていたのですか?
はじめは高校の教員になりたいと思っていたのですが、大学で勉強しているうちに、大学院で研究を続けて、大学の教員として学生に古代史の面白さや大切さを伝えていきたいと思うようになりました。
――普段読まれる本は歴史に関するものが多いのですか?歴史以外の本も読まれますか?
私が読むのは、ほとんどが自分の専門に関係する本です。たまに文章の書き方とか、英会話の本を読むくらいです。
――それは時間の問題ですか?
そうですね。電車の中でも論文を読んでいるか、原稿の校正をしたり、論文の構想を練ったりしていることが多いので、自由に好きな本を読む余裕がないというか。研究の幅を広げるために、本当はもっといろいろな分野の本を読みたいのですが、どうしてもいま抱えている原稿を優先してしまいます。
――根本的な質問になりますが、古代史を研究されることの意義はどういうところにありますか?
少し堅苦しい言い方になりますが、価値観を相対化して、現在を見直し、未来を見通すことだと私は思います。古代というのは、我々が当たり前だと思っていることが生まれてきた時代です。たとえば、日本という国の枠組み。私は日本で生まれて日本で育ったので、日本という国の存在を当たり前のように思っていましたが、日本という国の名前が定着したのは7世紀後半ごろのことです。これは国名の問題だけではなく、政治の仕組みや地域のまとまり、人々の信仰なども同じです。そうした我々が当たり前だと思っている物事がどのようにはじまって、どうやっていまにつながっているのかを、もっと知らないといけない。我々がどこからやってきたのかを知らないと、これから進むべき道を見失ってしまうと思います。
――たしかに、そうですね。
古代のことを調べていると、「これは昔からずっと変わっていないんだ」とか、「これはいまでもあるけれど、古代には全然違うあり方をしていたんだ」とか、いろいろな驚きが生まれてきます。古代というのは、現代から時間がすごく離れているので、その分、驚きも大きいんです。そしてその驚きは、現代の我々の考え方が決して絶対的なものではないことを教えてくれます。いまとは違う時代の価値観や人々の生き方を通して、いろいろな角度から物事を見る目を養うことは、いまを見直し、これからを見通すことにつながります。そういうところが、古代史を研究する一番の意義だと思っています。
――ちなみに古代といった場合、いつの時代のことを言いますか?
教科書的に言うと、日本列島に人類が誕生してから院政期まで。平安時代の終わりですね。私の専門は、その中で5世紀後半から9世紀まで。古墳・飛鳥・奈良時代から平安時代前期あたりです。
――当時の制度や風習がいままで残っているという例は、何かありますか?
たとえば、天皇制は古代から形を変えてはいますけれども、現代までずっと続いています。○○大臣や○○省という名称も、古代にまで遡ります。いまは東海道新幹線が走っていますが、東海道というのも古代にできた行政区画の一つです。神様に対する信仰などもそうですね。奈良県の大神(おおみわ)神社という神社は、山そのものを神様として祭っているんですが、これは神社に建物がつくられるようになるよりも古いお祭りの形が、もちろんそのままではありませんけれども、いろいろな変遷を経ていまに伝わっている貴重な例です。
――具体的に先生が古代の生活の様子を知ろうとしたら、どういう調査をされるのですか?
『古事記』や『日本書紀』などの歴史書が、メインの研究資料です。古文書や、文字が書かれた木の札のことを古代史では木簡というのですが、そういうものも使います。ほかに私の場合は、さきほどの大神神社や、和歌山県の日前国懸(ひのくまくにかかす)神宮、島根県の出雲大社など、いろいろな神社の神主さんのお宅にうかがって、そこに伝来した文書類を調査します。そういったものも研究素材として使っています。
――昔の字を読めるのですか?
昔の字といっても、私が専門としている時代は基本的に漢文ですので、漢字を読みます。ただ、その漢字も字形が崩されていたり、我々が使っている常用漢字とは違う字体を使っていたり、文字が消えかかっていたり、紙が破れてしまっていたり、語順も中国風の正しい漢文ではなく、日本風にアレンジされていたりするので、そのあたりは専門的な知識が必要です。有名な史料は注釈書や現代語訳が出ていますが、私はいままであまり研究されていない古文書を細かく観察して、一文字ずつ読んでいくのが好きですね。誰も気がつかなかったことに、自分が最初に気付くことが結構あるので。
研究者としての武器 – 英語での情報発信
――そういった日本の古代史に関する研究を、英語で発表することの意義や目的はどの辺りにありますか?
さきほども話に出ましたが、古代の日本は中国や韓国とのつながりが深くて、私の周りにも中国語や韓国語ができる研究者はすごく多いです。それに対して、英語での情報発信を行っている古代史の研究者は非常に少ないように思います。
――中国語や韓国語ができるというのは、日本の研究者のことですか?
ええ。国際シンポジウムではそういう方が間に入って通訳してくださいます。中国・韓国の研究者で、日本語が堪能な方もたくさんおられます。でも、少なくとも私が一緒に研究会で勉強している仲間の中には、研究で英語を使っている人は一人もいません。全国的にみれば英語で論文を書いている人はいますが、まだまだ少数です。なので、英語で情報発信ができれば、もっといろいろなことが見えてくると思うんです。あと、以前、中国の研究者とお話した時、私の方は片言でしたけど、英語でコミュニケーションできたことがありました。英語ができれば、いろいろな国の研究者とつながれるのではないかとも思っています。
――研究者として新しいことをやりたいということですね。
そうですね。それと最近、外国の研究者の論文を読んでいて、日本人にはない発想があると感じました。その影響もあって、洋画をよく見るようになったのですが、特にハリウッド映画には日本人がつくる映画とは全然違う面白さがあって、世界基準のエンターテイメントというか、これでもかというくらいアイディアが詰め込まれている。それと同じような刺激を、外国の研究者から受けることがあります。
――今のお話すごく面白いですね。何か具体例はありますか?
いま早稲田大学では、大正から戦後にかけて活躍した津田左右吉(つだそうきち)という歴史学者に関する共同研究を進めています。津田は戦前、古代の何人かの天皇は実在していなかったという説を発表したのですが、それが不敬罪だという批判を受けて、本は発禁処分になり、大学も辞職させられてしまいます。これは津田事件と呼ばれているのですが、共同研究に参加されているアメリカの大学の先生は、この事件をキリスト教の異端裁判と比較されるんです。また、津田の研究がアメリカでどう翻訳されて、外国の研究者たちがどういう影響を受けたのかということにも注目しておられます。私にはそういうグローバルな発想は全くなかったので、すごく刺激を受けました。
前回のインタビュー記事スタンダード英文校正を使う理由も、どうぞご覧ください。