梶田先生は埼玉大学で学部時代を過ごされ、大学院から東京大学に移られて研究者になられましたが、高校を卒業して埼玉大学に入学された時、「研究者になろう」という夢はありましたか?
埼玉大学に入学した時には、「研究者になろう」とは全然決めていませんでしたね。物理を主にやろう、というところまでは決めていましたけれども。その先はやってみないとわからないことはいっぱいありますから。
埼玉大学の学部で物理を勉強し始めまして。まあ、あんまり真面目に勉強しなかったんですけども、それでもかなり面白いと感じる要素があって、本格的に物理をやってみたいなと思ったんですね。その時、院は東大に行こうと必ずしも考えていたわけじゃありません。素粒子や宇宙線の実験をやりたいと漠然と思っていて、たまたま東大でそういう研究をやっている先生がいらっしゃるということで、まあ受けてみようかと。はじめはそのくらいの感じでした。
物理学は物性物理と素粒子・宇宙に大きく分かれると思うんですが、物性物理にはさほど興味がなくて、元々、どちらかといえば素粒子とか宇宙に興味がありました。大学院に入ってからですね。本気で物理が面白いなと、物理の実験が面白いなということを感じ始めたのは。
東京大学の大学院に移られてから、研究者としてキャリアを積もうといった目標や、将来ノーベル賞をとりたいといった思いはありましたか?
大学院時代にその後のキャリアをどうしようとは考えていなかったんですね。とりあえずは大学院在学中に博士論文書いて博士を取ろうと。そのあと、じゃあ次はどこか就職先を見つけなければな、できれば研究者としての就職先がないかな、みたいな、そのくらいのことしか考えていなかったんです。当時、若かったころの自分は、あんまり先を見て行動するようなタイプではありませんでしたね。
当時、日本学術振興会のポスドクの制度はあったんですが、それは落ちてしまいました。そこでありがたいことに、小柴先生が東大理学部の素粒子物理国際センターで任期付きの助手として採ってくださって。その素粒子物理国際センターの仕事っていうのは、当時はヨーロッパのCERNでやるe+e-のコライダーの実験の準備だったんです。それを半分やりながら、カミオカンデを半分やっていいよ、という感じでした。その職は本当は1年の任期と言われたんですが、結局2年間やらせていただいて、そのあとで東大の宇宙線研究所の助手に移りました。そこからはあんまり職のことを心配しないで研究ができるようになりましたね。
先生は東京大学での助手時代にすごく実績を伸ばされ、その後ノーベル賞受賞に至ったわけですが、任期付きの助手の時代から今に至るまでを振り返って、自分にはこの強みがあったからチャンスをつかめた、という理由はなんだったのでしょうか?
それは、よくわからないですね。ありがたいことに、あのころ宇宙線研究所の将来の重要プロジェクトをどこにしようかと議論していて、スーパーカミオカンデと決めていただいたんですね。それで私も含めて4人の研究者が宇宙線研究所に移って研究できるようになりました。ですから、私は本当に偶然、そういうありがたい状況に乗れたという感じがします。やはりなかなか、ことアカデミックな職について言うと、「こうでなきゃいかん」と決めてその通りの道を進む人というのは本当に本当に、本当に僅かだと思います。ある程度柔軟にやらざるを得ないところがあると思うんですね。
先生は宇宙線研究の世界で何十年もずっとキャリアを積まれて、こちらの宇宙線研究所の所長をされて、ノーベル賞受賞と、歴史に残る研究を何十年も続けられてきたわけですが、それだけの長い期間研究をやり続けて科学的発見をしようと思うモチベーションはどこから来ているのでしょうか?
そうですね、あくまで私の場合ですが、ニュートリノ振動を偶然にも発見できたことが大きいですね。ニュートリノ振動の発見に関わる最初のデータに気付いたのが1986年で、まだ私が博士号を取って半年経ったばかりのころの話なんですね。そのときはまだそのデータが示すものがニュートリノ振動であるとわかってはいなかったのですが、それが相当重要な発見の可能性があるという認識がありました。何かこれまで考えられていない重要なことが起きているぞと。重要にちがいないから、この課題をしっかり追求しようと当時心に決めて、後はずっとその思いで続けてきたという、そんな感じです。これをちゃんと続けていけばきっと重要な結果が得られると感じていました。
おそらく今の時代、若い研究者、任期つきのポジションにいる人には、私がしてきたように一つの大きなテーマを長く温めるような研究のやり方はできなくなっていると思うんですね。やっぱり「毎年論文を書け」とか言われたり、「評価、評価、評価」で。とにかく何でもいいから論文をたくさん書かなきゃいけないみたいなそういう時代になってしまっていると思います。我々の時代は若い研究者がそんなことを要求されることはなかったんです。もちろんそれでも2年に1本ぐらいは論文を書いていますけれど。ですから、研究の進み方が遅いからといって焦るような時代ではなかったです。自分が大切だと思ったことを、研究することが許されている時代だったということが大きいと思います。
ノーベル賞を受賞されましたが、 ご自身ではいつか自分はノーベル賞を受賞するかもと考えられていましたか?
その質問、よく聞かれるんです。受賞前の何年かはノーベル賞発表前の9月頃になるとマスコミの人がよく来ていましたが、まあでも、なんとなく他人事で対応していましたね。たぶん僕が本当に受賞することはないんじゃないの、みたいな、そんな感じで思ってましたね。
実際には受賞されたわけですけれど、聞いたところではちょうど受賞発表の10分前に委員会から受賞の連絡があったそうですね。その連絡を受けた時はどういう感じでしたか?
それはびっくりしますよ。突然連絡が入りますから。 受賞の瞬間はそんなにいろいろ考えている余裕は全然ないですよ。もう頭真っ白です、何もわかりませんでした。
ノーベル賞は評価の基準を公にしていませんが、 先生は何が評価されてご自身が受賞されたと考えていらっしゃいますか?
それはわからないですね。もちろんニュートリノ振動につながる研究をずっとやってきたことはやってきたわけですが。その業績が選考する委員会の方に知られていたかどうかなど全然わからないものですので。ありがたいと思いますけども。
少し前にマスコミで「ノーベル賞受賞者には東京大学出身者が少ない」と話題になっていました。先生も学部はもともと埼玉大学で、他の受賞者の方もみなさん東大の研究者ではありませんでしたが、先生はご自身としてこの点どう思われますか?
まあそうですね。この話題には2つの側面がありますよね。「研究をやる場所」としての東大と、「将来研究者になる人が育つ場所」としての東大。「研究をやる場所」としての東大、という点に関しては、もちろん僕の研究は東大でやったもので、東大だからこそできた研究だと思います。その一方で、「将来研究者になる人が育つ場所」としての大学を考えると、僕はおそらく、高校を出たぐらいの学力の段階で、将来研究者として育つ人を日本の大学はきちんと選考できていないということだと思います。だからこそ、東大に限らずいろんな大学出身の人が大きい成果を出すことがあるんだと思いますよ。そういう意味で、僕は今の日本は国立大学をきちんと、広くサポートしていくべきなんだろうと思っています。
一方で、研究では大学院以上のレベルになると、ある程度特化した大学に研究の中心ができてくるのは当然だと思います。まあそれも東大にばかり集まるというわけではなくてね。いろんな大学に、「この研究だったらここ!」という、そういうような拠点ができてくるのは自然だと思います。
研究評価について伺いたいのですが。先ほどもお話されていたように、昔は論文をたくさん書かなくても、研究者はある程度好きなことやらせてもらえたけれど、今ではもう本当に短期間で結果を出さなくちゃいけない。短いスパンの研究しかできないので、大きな成果が出しづらい時代になっていると思います。それはやはり先生のような方でも感じられるところですか?
周りを見ると確かにそういう評価指標ばっかりが多いので、それはそうだと思います。日本全体がそういう状況なんだと思います。ただ宇宙線研究所について言えば、そんなのにばっかり流されてたらですね、駄目になっちゃいますので。対外的には評価書を出させたりは当然しますけれども、そんなのは別に気にしないという、そういうスタンスでやります。そういう独自の方針を採用している研究所が日本にどのくらいあるかはわかりませんけれども、宇宙線研究所はそのスタンスを、少なくとも当面は、貫ける限りは貫きたいと思います。
科研費審査の際に審査員が論文数に重きを置いているかというと、僕はそんなことはないと思います。やっぱり審査員も科学者なので、論文の数ではなく、その研究者がどういうことをこれまで実際にやってきて、何をこれからやろうとしてるのかを見ていると思うんですよ。そういう、サイエンスのプロセスを申請者がしっかりやれてるかどうか、今後ちゃんとやれそうかで見ていると思います。
若手の育成について伺いたいのですが、先生は以前小柴先生と一緒に研究をされていて、今は宇宙線研究所の所長を務められていますが、ご自身では若手研究者の育成はどうあるべきだと思われますか? 実際に小柴先生から受けた教育も含めて、先生ご自身の教育者としてのスタンスを是非お伺いできればと思うのですが。
そうですね。小柴先生の若手教育は、まああんまり細かい技術的なことはどうでもよいと。それよりも科学者としてやっていくポイントだけを伝えるという、そんな感じだったと思います。例えば1番印象に残っているのは、「自分が将来、独立した研究者としてやっていこうと思うのであれば、自分自身の研究の卵をいくつか持っていなさい」とよくおっしゃっていましたね。それが実現できるような環境、あるいは時期がいつ来るんだろうか、ちょうど今来たんだろうか、と常に考えるような、そういう研究者にならんと駄目だと。それが根本だという、そういう教育でした。
僕が小柴研で学んだことは、研究現場での、実際の仕事、実際の研究が大切だと。つまり例えば大学院生であっても、他の研究者と一緒に装置を作ったり、ほぼ対等のような立場で議論に参加して、一緒に組み上げていく。それを現場で経験していくことが若手の育成にとってとても重要だと感じました。宇宙線研究所というのは、日本国内の大きい大学の宇宙線分野の研究室でもできないレベルのものを準備して、全国の大学の研究者のみなさんと一緒に使っていくという立場にあります。大学のレベルを超えた装置を作り、運用していくという、そういう研究ができる研究所です。若手の人たちにはその生の現場に入って、いろいろ経験して成長してもらいたいと、そんな感じで考えています。
今の時代、とくに物理学で成功していくためには若手研究者の人にはどのような素質が必要だと思いますか?
その質問にはいろんな可能性があって、答えるのが難しいですね。例えば基本的には今自分たちが研究している分野ではどういうことが本質的な問題で、そのためにどういうアプローチがあってといったことを知っている必要があると思いますし。素質…、何でしょうね、いろいろな答え方があってわかりませんね。
今ご自身が仮に20代後半から30代ぐらいの若手の物理学者だったら、今と同じ研究をされていたと思いますか?
今20代だったとしても、やっぱりね、今、宇宙線の分野は非常に面白いんで、たぶん同じようなことをやってる感じがしますね。
今日本の科学技術政策の方針について何か感じるところはありますか?
これはあくまで僕の感覚ですけれども、政府主導の科学技術政策では、ともかく「イノベーション」ばっかりですよね。その言葉にすべてが集約されてしまっています。近年はすべてが「イノベーション」だと。「イノベーションのための科学」という、そんな風潮ができちゃうのは怖いと思っています。この風潮が長期的に見て本当に基礎科学にどれだけ影響があるのかはわかりませんが、例えば近頃ニュートリノの研究の話を高校生や中学生にしていて驚くのは、「それが何の役に立つんですか?」ということを必ず聞く学生がいるんですね。
中高生にニュートリノの話をして最初に出る質問は必ずそれ、みたいな感じですからね。やっぱり彼らには純粋に学問に好奇心と興味を持ってもらいたいのに、若い彼らが「これは役に立つか?」という視点でまず学問の価値を考えるという風潮が生まれちゃっている現状を、非常に危惧しています。本来は僕らの話を通して、純粋に自然の不思議、宇宙の不思議があり、それを解き明かす活動としての研究があるんだと知ってもらいたいんですが。
物理学に関心のある学生さんには何をモチベーションにこの分野で頑張って欲しいとアピールしますか?
それはもう、我々が世の中に向かって基礎科学の重要性を伝え続けるから、若い人は安心して来てくれと。それだけです。
ほかに国の科学技術政策について訴えかけたいご意見はありますか?
ほかにも1つあります。これはあまり知られていないんですけれど、日本は32のOECD加盟国の中で、高等教育にかける公的予算の対GDP比が最下位です。世界的にGDPに占める公的予算が極めて低いんです。もう少しその現実を日本のみなさんがちゃんと知ったほうがいいと思いますね。これが、今の日本の姿です。この現実を理解して、これが本当に日本国民のみなさんが思い描いている日本なのかということを考えてもらいたいと思います。