ロバート・ポーター (Robert Porter)博士は、医療専門家や一般向けの医療情報源として古くから利用され広く普及しているメルクマニュアル(The Merck Manuals)の編集長です。ポーター博士は、ペンシルバニア州フィラデルフィアのハーネマン大学で医学士を取得し、1983年にオハイオ州クリーブランドのマウント・サイナイ医療センターで救急医療研修を受けました。その後18年間にわたってフィラデルフィア近郊で緊急医療の常勤医師として勤務した後、2001年からメルクマニュアルで活動しています。1983年以来、フィラデルフィア近郊で様々な医療・教育の仕事を引き受け、Pennsylvania College of Emergency PhysiciansやPennsylvania Trauma Systems Foundationの理事会役員も務めました。
メルクマニュアルのコンテンツへの取り組みが成功しているのは、あらゆる人に正確な医療情報を等しく伝えようとするポーター博士の医学教育および医療コミュニケーションへの情熱のお蔭です。本インタビューでは、メルクマニュアルの概要と、1899年の発刊後の展開について伺い、ポーター博士には、今日のデジタル化時代における医療情報の問題点について幅広い視点からお話し頂きました。現在は、増え続ける医療情報に誰でもアクセスできますが、そのすべてが正確というわけではなく、それらに宣伝の意図がないともいえません。このため、研究者および医療や出版の専門家が介入し、正確で最新の情報を普及させる必要があります。医療や健康に関する情報は、普遍的人権とみなされるべきであり、少数者だけが謳歌できる特権とすべきではありません。
メルクマニュアルの概要について教えてください。その使命は何ですか?また、他の医療情報と違うところは何でしょうか。
メルクマニュアルは、あらゆる疾病の症状、診断、治療を網羅する総合医療の参考書です。製薬会社のMerck社が1899年に創刊し、現在はその会社の末裔である米ニュージャージー州ケニルワース(Kenilworth)のメルク社(Merck & Co., Inc.)が発行しています。本書は米国・カナダではメルクマニュアルとして知られていますが、その他の地域では現在MSD Manualと呼ばれています。英語版はこれまで印刷版が19版まで発行され、過去50年間で様々な言語に翻訳されてきました。これまでに少なくとも16ヶ国語に翻訳されています。1997年には一般向けのメルクマニュアルを発行し、医療専門家向けと同じトピックについて、一般の人にもなじみのある言葉で分かりやすく解説しました。
メルクマニュアルの使命は、最新の医療・健康情報を共有することによって、医療上の決定を十分な情報に基づいて下せるようにし、患者と専門家の関係を強化し、世界中の医療の結果を改善することです。
メルクマニュアルが他の医療情報と異なるのは、製薬会社が発行しているにもかかわらず、編集の独立性が完全に保たれており、最新・最良の医療情報を提供しているという点です。350名を超える各トピックの著者は、その分野で名高い学識経験者たちで、メルク社やMSD社の社員ではなく、それらの企業の製品の宣伝にも全く関わっていません。また、著者の書いたものはすべて、外部の最先端の医療専門家による査読にかけられます。メルクマニュアルの内容について、私自身と編集チームを除き、メルク社やMSD社の者がレビューや承認を行うことはありません。
メルクマニュアルは、発刊以来、どのように進化してきたのでしょうか。博士がもともと目標としていたことは、達成されましたか?
皆さんご存知の通り、最初にメルクマニュアルが発行された1899年当時の医学や医学教育は、現在とはかなり異なるものです。我々にはおなじみとなっている一般向けの医学書はありませんでした。メルクマニュアルの初版はたった199ページで、疾病名がアルファベット順に並べられ、各疾病に対して当時用いられていた治療の簡単なリストが掲載されている目録に過ぎませんでした。いくつもの治療法が掲載されていて、その中でどれが優れているかを推薦することもなく、なぜその治療方法に効果があるとされるのかの説明もなく、有害反応の可能性も考慮されていませんでした。初版には、現在も使われている治療法も含まれています。例えば、狭心症にはニトログリセリン、痛風にはコルヒチン、心不全にはジギタリス、といったものです。しかし、治療方法の多くは信じがたいもので(水疱瘡に緩下剤、肺炎にジンなど)、実際は症状を悪化させるもの(ショック状態にニトログリセリン、不眠症にコカイン、便秘にアヘンなど)も含まれていました。
1920年代から1930年代にかけて、医学がそれまでよりも科学に基づいたものになるにつれ、メルクマニュアルもそのように変わって行きました。1950年代までには、今の標準的な医学書のスタイルに準拠して、病理生理学、症状と兆候、診断、治療について検討するようになりました。1980年代までには多くの言語に翻訳され、世界で最も多くの人に利用される医学書となりました。1990年代には、医療情報を得るためにメルクマニュアルを読んでいる非専門家が増えたので、一般用(現在の家庭用)を開発しました。
医者や一般の人々がオンライン情報に頼り始める以前は、印刷版の専門家用と一般用はそれぞれ100万部以上売れました。現在、印刷版の売り上げは減少しましたが、英語のオンライン版には毎月何百万というユニークユーザー訪問数があります。オンライン版によって、「医学情報のマルチメディア情報源」になるという目標を達成することができました。オンラインの日本語版とその他の言語版のユーザー数も、それぞれ数百万以上です。独自の教育ツールと経験を提供できるよう、今後もマルチメディア・コンテンツを追加していく計画です。
メルクマニュアルの使命は、最も優れた信頼性の高い最新の医療・健康情報を提供することだということですが、内容が最新で、正確で、なおかつアクセスしやすいということをどのように確認するのですか?また、その場合の課題は何でしょうか。
先ほど述べたような、数多くの医療専門家に活躍してもらうことに加えて、メルクマニュアルの著者全員に、自分の割り当てられたトピックについて、一定期間に複数回アップデートすることに同意してもらっています。著者が医療専門家用をアップデートすると、メルクマニュアルの編集スタッフがその変更に基づいて、一般用の同じトピックの初期アップデートを行います。それから著者が一般用を見直して修正します。メルクマニュアルの編集スタッフは、著者と協力しながら全てのトピックが可能な限り明快でわかりやすい言葉で書かれているかどうかを確認します。我々は、複雑極まりない題材であっても、堅苦しい「医学的文体」と感じられないような分かりやすい言葉で説明することが可能と考えています。
一番の課題は、協力者である医療専門家たちが時間を割くことがどんどん難しくなってきているということです。現代の研究医は、以前と比べ、診察する患者も事務処理も多くなっています(事務手続きは電子化されていることも多いですが)。このため、高度な資格を有した専門家は、メルクマニュアルなどの医学文献関係の仕事にあまり関わりたがりません。貢献してくれたとしても、仕事を終えるまでには長い時間を要します。
2015年4月、新しいメルクマニュアルは全てデジタル化すると発表されました。オンラインに特化するという決定は、何がきっかけで下されたのでしょうか。新しいデジタル版の特徴は何ですか?
紙に印刷された本を趣味で楽しむ人はまだいますが、特に専門家が情報を参照する場合は、今やインターネットが利用されています。デジタル情報をアップデートするほうが、印刷された本を買い直すよりも簡単で安価で便利だからです。印刷版だと4、5年に一度のアップデートしかできません。メルクマニュアルの英語版を全てデジタル化するという戦略に変更したのはこのためです。オンラインというフォーマットによって、写真やビデオ、音声ポッドキャスト、そして双方向型の症例シミュレーションなど、印刷では不可能だったマルチメディアを含めることが可能となりました。
全てデジタル化された新生メルクマニュアルは、我々の英語版の主力商品です。しかし、米国外の提携出版社の中には、他の言語で印刷版の継続を決定したところもあります。
デジタル化によって、医学や医療のみならずあらゆるものに関する情報があふれていますが、残念ながら全ての情報が正しいわけではありません。このことが、医学知識や科学の発展にどのような影響を与えるとお考えでしょうか?
現在の医学情報には、いくつかの問題点があります。第一に、医学誌、科学に関する学会、そして規定や勧告などから、根拠のある新しいデータが次々に出され、増え続けているということがあります。情報は大体において信頼できるものですが、その量は膨大で、どれほど勤勉な医師の能力をもってしても、後れを取らずに情報を追うのは困難です。査読を通った信頼性のあるデータに加え、一般の人や患者を対象とした信ぴょう性のない情報も同じぐらい大量に存在します。これらの情報には正確で役立つものも含まれていますが、製品を売るためのバイアスがかかっていたり、不正確だったり、危険なものさえあります。このため、専門家にとっても一般の人にとっても、検索エンジンで探し出したオンライン情報が正確かどうかを見極めることは難しくなっています。
全般的には、オンラインで情報を見つけやすくなったことで、医師も一般の人もかつてないほど情報に通じていると思いますが、誤った情報の拡散も増えていると思います。専門家も一般の人も、インターネットで見つけた情報、特にそのウェブサイトの目的が教育なのか商売なのかが判然としない場合、その情報を受け入れることに徐々に慎重になってきています。商品やサービスを販売しているサイトや、大量の広告が掲載されているサイトは、バイアスのかかった情報源である可能性もあるでしょう。
正確な最新情報を広めるために、研究者や出版の専門家、医師、医学・医療専門家が果たすべき役割とは何でしょうか。
研究者や医学専門家、そして出版関係者は、正確な最新情報を広めるために大きな役割を担っています。研究者と専門家ができることは、信頼性が高くバイアスのかかっていないウェブサイトにコンテンツを提供することです。メルクマニュアルでは、時間と興味の両方を持ち合わせている著名な医師を探すのにいつも苦労しています。出版の専門家には、情報を最新のものに保ち、ウェブサイトのバイアスをなくし、あらゆる点で透明性を保持するようにしてもらえると助かります。
今年、「Global Medical Knowledge 2020」という新しい取り組みが発表されました。これについて少し教えてください。
メルクマニュアルでは、医療・健康情報は普遍的人権であり、特権や商品ではないと考えています。正確で分かりやすい医療情報を誰もが等しく得る権利を持っていると思っています。Global Medical Knowledge 2020の目標は、2020年までに医療関係者と患者30億人を、最新で最良の医療情報にアクセス可能とすることです。これを達成するために、メルクマニュアルの医療専門家用と一般用を定期的にアップデートし、それを他言語に翻訳していきます(翻訳も英語版のアップデートと同期させます)。これら全てのバージョンを全世界で無料提供し、安定したインターネット接続環境にない人々も必要な情報にアクセスできるよう、モバイル機器でも無料で利用できるようにします。日常的に使われている言語と機器を適切に取り入れることで、2020年までに30億人のアクセスが可能だと考えています。
主任編集者として、最も困難な点と最もやりがいのある点は何ですか?
メルクマニュアルを運営する中で最も困難な点は主として、コンテンツを最新のものに保つことと、伝統的なメルクマニュアルの明快で整った文体を保つことです。著者は(編集者もそうだと認めざるを得ませんが)、明瞭な伝達のためには変更が不要でも、自分の書いた言葉をより洗練されたものに訂正したがる傾向があります。このため、編集プロセスの各段階にかける時間が長くなり、著者は、その仕事を重荷と感じるようになって、頻繁なアップデートを嫌うようになります。更に、これらの変更は全て他の言語に翻訳されなければなりません。ミスや見逃しや当該箇所だけに集中してもらうようにするのは、大変難しいことだといつも感じています。
もっともやりがいを感じるのは、専門家、特に医学を学び始めたばかりの学生や、分かりやすい言葉で複雑なトピックについて学ばなければならない一般の人々を含むさまざまな人々に向けて価値ある情報を生み出し、提供できる点です。
ポーター博士、ありがとうございました!